男32人と女1人の遭難生活「アナタハン島の女王事件」が闇深すぎる…



太平洋戦争末期、とある島で発生した恐ろしい遭難事件「アナタハンの女王事件」のご紹介。何も起きないはずもなく…

スポンサーリンク



「アナタハンの女王事件」とは、太平洋戦争末期にマリアナ諸島・アナタハン島に流れ着いた漂流者達が、過酷なサバイバル生活の中で1人の女性を巡って争い”殺し合い”をしたと言われている事件。
 
事の始まりは1944年6月12日のことでした。日本政府の命によってサイパン島付近に出航していた日本の漁船数隻が、アメリカ軍の攻撃によって沈没してしまったのです。船の乗組員らは命からがら脱出し、アナタハン島へと流れ着きました。そうして流れ着いたのは、兵士10名と軍属の船員21名。上は20代から下は16歳の少年までおり、計31名の全員が男性でした。
 
1.

image credit:wikipedia
 
当時、日本の領地であったアナタハン島にはすでに2人の住民がいました。南洋興発という会社からヤシ林経営のためにこの島に派遣されていた、比嘉和子(24歳)さんとその上司の男性です。2人は元々、和子さんの夫である比嘉正一さんを含めた3人で、島の原住民を雇いヤシ林の運営をしていましたが、戦争が激化するにつれて、正一さんは近くの島に住む妹の身を案じ島を出ていき、そのまま消息不明となっていました。そして、この頃にはアナタハン島にも戦争の波が押し寄せており、アメリカ軍の攻撃に怯えながらも、和子さんは上司の男性と力を合わせて生活していました。
 
2.

image credit:metrograph
 
そしてとある日、アナタハン島に31名の男性が漂着してきます。東西に12km、南北に4kmほどの面積しかないこの島では、和子さんらと31名の漂流者達はすぐに出会いました。2人は、日本から遠くなはれたこの島で同じ日本人と出会えたことを喜び、彼らを精一杯もてなしたと言います。
 
こうして33人の共同生活はスタートし、彼らは力を合わせて生活していきました。漂着していたドラム缶に溜めた雨水を飲料水とし、島で飼われていた家畜や自生していた果物を食べることで日々をやり過ごしました。しかし徐々に食糧は底をつくようになり、追い込まれた彼らは、原住民を見習い自給自足の生活を始めました。
 
タロイモなどの栽培を始め、海で魚を捕り、島に生息するトカゲやコウモリを捕まえて食糧としました。身に付けていた衣服は最早ボロボロで、唯一の女性である和子さんさえも、上半身は裸で過ごすのが当たり前になっていたといいます。こうした努力の結果、食糧問題に悩まされることもなくなり、原住民にヤシの木から酒を造る方法を教わり、宴会を楽しむ余裕なども出てきていたそうです。しかし、島には時折アメリカ軍の爆撃機が飛来し、爆弾を落としていきました。戦う術も島から脱出する術も持たない漂流者達は、ひっそりと身を隠すことしか出来ませんでした。
 
3. アナタハン島の地図

image credit:chuansong
 
それから約1年後の1945年8月15日に戦争は終わりを迎えました。原住民達はアメリカ軍によって連れていかれ、島内に残る日本人に向けても拡声器を使用して投降が呼びかけられました。しかし、33人の日本人は誰一人として日本の敗戦を信じようとはしませんでした。それもそのはず、当時の日本兵は「鬼畜米英に捕まったら最後、命は無い」と教えられていたからです。更には、終戦を告げるビラがアメリカの航空機によって島内にバラ撒かれましたが、このビラを拾う者もいなかったそうです。後の話では、この頃に処理されていたアナタハン島付近の遺棄爆弾の音を爆撃と勘違いしていたのだそう。
 
4. アメリカ軍がバラ撒いた終戦を告げるビラ

image credit:chuansong
 
こうして、島内には33人の日本人のみが取り残されることとなりました。終戦を信じる者はいなかったものの、それまで彼を恐怖に陥れていた空襲が止んだことで島の生活は充実していき、やがて、それまで抑えられていた男性の達の欲望が和子さんに向けるられるようになってしまうのです。
 
と言っても、誰かがいきなり和子さんを襲うようなことはありませんでした。そして、争いを避けようと考えた男が、元々この島にいた和子さんとその上司の2人が結婚し、漂流者達とは離れて暮らすことを提案します。こうして、一旦は危機を回避することに成功します。
 
そして終戦から約1年が経過した頃、和子さんとその上司は森の中でアメリカの戦闘機「B29」の残骸を発見し、貴重な生活用品の数々を手に入れます。和子さんはパラシュートから衣服を作り、可能な限り男たちの分も作ってやったのだといいます。しかし、同じ頃に漂流者の男性2人は、B29の残骸から”壊れた拳銃3丁”と”実弾70発”を手に入れてしまいます。この事が島内を混乱に陥れる原因となるのでした。
 
拳銃を持ち帰った男性2人(以後、AとB)は、拳銃を分解し組み立て直すことで”発砲可能”な拳銃2丁を手に入れました。そして、それから程なくしてAとBと不仲であった男性が”謎の転落事故”によって亡くなります。現場を目撃したのはAとBの2人のみ。住民の間では2人を怪しむ声が続出しました。
 
やがて、島内において絶対的な”武力”を得たAとBは、和子さんを脅迫し肉体関係を迫るようになりました。結果、和子さんはA・B・上司の3人と関係を持つようになっていたのです。
 
しかし、AとBは酒の席で喧嘩になり、BがAによって射殺されます。すると、危険を感じた和子さんの上司は和子さんから身を引くことを宣言しました。2丁の拳銃を手に入れ、彼に対して逆らう者もいなくなったAでしたが、彼はその後、夜釣りをしている最中に海へ転落し死亡しました。この件についても詳細は不明であり、和子さんはその後”上司”の男性とヨリを戻しました。
 
この後にも和子さんを巡る争いは繰り返され、島の男が23人にまで減った頃、今度こそと和子さんの”正式な夫”を決める結婚式が行われ、2丁の拳銃は男達の手によって海へと捨てられました。しかし、それでも争いが止むことは無く、この後にも4人の男性が行方不明になったり殺害されたりしました。
 
やがて、結婚では問題解決にならないと考えた男達はなんと、身勝手にも和子さんを”処刑”することに決めました。1人の男性にそのことをこっそりと知らされた和子さんは、森の中へと逃げ込みました。いきなり女1人で森の中へと放り出された和子さんは、男達から身を隠しながら必死にサバイバル生活を続けました。そしてそれから約1ヶ月後、和子さんは沖にアメリカ軍の船を発見し、投降しました。男達はこの時も終戦を受け入れず隠れていたため、和子さんは無事に生還することが出来たといいます。6年の島生活を経て、和子さんは30歳になっていました。
 
5. 救助された和子さん(真ん中)と救助員達

image credit:yahoo
 
6.

image credit:archive
 
和子さんはその後、日本に帰還した際にアナタハン島で起こったことの全てを話しました。島に残っている男性達には親族からの手紙が大量に送られ、また、アメリカ軍による呼びかけも同時に行われましたが、それでも男性達は投稿しようとはしませんでした。
 
そして和子さんが救助されてから約1年が経過した頃、ようやく1人の男性が呼びかけに応じ投降しました。この男性は、自分に宛てられた手紙が妻によるものだと確信出来たために投降したのだとか。それから約2週間後、この男性によって島に残っている人達へ説得が行われ、島に残っていた全ての住民が投降しました。この時の生存者の中には、和子さんの”夫”になった者は1人として残ってはいませんでした。
 
7. 白旗を掲げ投降し、島に別れを告げる男性達

image credit:archive
 
8.

image credit:archive
 
1951年7月6日、羽田空港へと到着した彼らの下には大勢の報道記者が押し寄せ、一連の出来事は「アナタハンの女王事件」として日本中で大々的に報道されました。帰還した男性全員が涙を流していたといいます。
 
9. 

image credit:livedoor
 
無事生に還した者のほとんどは、すでに戦死したと考えられ葬儀すら済まされてしまっていました。そして、和子の本当の夫であった正一さんはすでに日本へと帰国しており、彼は和子さんは亡くなったものと考え、別の女性と再婚していました。和子さんはこのことについて、「これも戦争が生んだ悲劇です。」と語っています。そして、他の帰還者の男性達も妻に新しい夫が出来ていたりと、様々な問題が発生しました。
 
その後、帰還した者に死亡した船員の詳細について尋問が行われましたが、それぞれの証言が食い違ったことからアナタハン島での殺人事件が発覚。各種報道機関はこの事件をこぞって取り上げ、図らずも事件の中心的存在となってしまった和子さんのことを「女王蜂」「男を惑わす女」などと面白おかしく揶揄し、絶好のネタとして騒ぎ立てました。
 
10.

image credit:ameba
 
良くも悪くも世間の注目を浴びてしまった和子さんは、島での事件を題材にした舞台や映画に出演し、自身のブロマイドを発売するなど、日本中に「アナタハンブーム」なるものを巻き起こし、凄まじい人気を誇ったといいます。
 
11.

image credit:img.47news
 
12.

image credit:wikimedia
 
しかしその一方で、彼女に対する中傷染みた報道が止むことはありませんでした。そのせいで彼女は、故郷・沖縄で経営していたカフェを手放し、本土でひっそりと生活するようになりました。その後、ほとぼりが冷めたころに沖縄へと舞い戻り、2人の連れ子がいた男性と知り合い、再婚しました。新しいパートナーと始めたタコ焼き屋兼カキ氷屋は繁盛し、家族関係も良好、余生を穏やかに過ごし、1974年に脳腫瘍で亡くなりました。享年49歳でした。
 

人気記事①

人気記事②

カテゴリー: 未分類 パーマリンク

男32人と女1人の遭難生活「アナタハン島の女王事件」が闇深すぎる… への1件のフィードバック

  1. 名無しさん 2017年6月26日11:45 AM

    ぶっさコミュ抜けるわ

コメントをどうぞ

内容に問題なければ、下記の「コメントを送信する」ボタンを押してください。